論法上の評価

千羽鶴問題が最近話題になったように感じます。
いつから千羽鶴を送ることが間違ったことになってしまったのか。

それぞれの言い分をから論法上の評価について考えたいと思います。

https://youtu.be/Cv6RZKNIinE

千羽鶴問題

地震や戦争などで傷付いた人に向けた気持ちとして千羽鶴を送ろうとする動きがあります。
その行動について頭の良い方々は「千羽鶴を送っても役に立たない」
「役に立たない送る人は他人の気持ちを考えられないダメな人」といった解釈がなされ、
もっと具体的に役立つものを送るのが
助ける人の筋だろうという。話題です。

それは被災地などの現場からも、実際に千羽鶴が支援の妨げになった
や現地の声などとして紹介され、問題になっている話しです。

この問題は何が問題になっているかというと
成果と気持ちの問題という部分です。

もう少し分かりやすくするために
それぞれの意見について紹介したいと思います。

著名人や頭の良い人の声

合理性があるか、実際に役立つものを送るべきというのが彼らの回答です。

災害や悲惨な状況を情報収集し、その状況から判断して必要なものを推測
手配や調達方法を検討し、最良の方法で現地に支援として届けるのがもっともよいことだと主張しています。

人によってはそのことを考えられない人は
他人を思いやれない人でもあると評価し
他人を正しく思いやることの出来る人にならなければならないと言っています。

その回答に間違いがないのは事実です。
言葉の筋として言い返すことはできません。
だからとても正しく感じます。

支援される側の人の声

被災などをするとインフラが一度急激に低下し、全ての機能が停止する程度まで落ち込みます。
しかし、日本の場合インフラ復旧についてかなり調整がされている面もあり様々な支援体制が
整っている状況でもあります。

物流の復旧速度は凄まじく、物流路が確保されると支援物資が突然増え
物資の整理が追いつかないといった状況になります。

例えばそれは蛇口の元を開くようなもので、溜まっていた水が勢いよく飛び出すような感覚に
近いかもしれません。

現地は被災状況なので常に人員不足状態でアップアップしています。
そこに捌ききれないような荷物がどっと入ってきて、分類と補間、配給の手配を進めなければなりません。

そんな中、千羽鶴などの現地では意味をなさないものが同時に送られてくることで担当者のストレスや
負担になっているのが現状といった問題です。

だから可能な限り役に立つものを送って欲しいというのが
担当者レベルでの気持ちであり、その作業に協力して動く一般市民の声なのだと思います。

支援をする人の声

支援には様々な形があります。できる支援には個々で限りがあり
大切にしていることは違います。

物を送ることが大切だと感じれば、物を送れるように考える人もいます。
現地で助けになる行動をしようと思い、現地に向かう人もいます。

気持ちを届けることが大事だと思えば気持ちを届けるように動く人もいるでしょう。
そして、気持ちはあれどできることが限られている人たちもいます。

頭のよい人たちの言葉は本当に正しいのか

頭のよい人たちの声が届きやすくなった今、合理的な答えが正義のように感じます。
ですが、それはもしかしたら社会をダメにするかもしれないと感じています。

人は物理的な満足と精神的(気持ち)満足の両方が必要な生き物だと感じています。
それは、ホテルのサービスを想像して貰えれば良いと思います。

ホテルの内装やインテリアが素晴らしくとも、スタッフの対応が悪ければ
満足感が足りず支払った価格に見合わないと思うこともあるでしょう。

緊急性が高い場合、気持ちの満足よりも
物理的な充実を欲するのは本能的に必要と感じていることです。
そしてまずはその充実度を高めるべきというのが
頭のよい人たちの見解です。

ですが自分たちも頭のよい人たちも
現場の状況を知っているわけではありません。

Twitterなどのリアルタイムの情報収集が得意であっても
実際に物を届けるには時間がかかり、今欲しいものが数時間後には変化するのはじつはよくあることなのです。

物流には流れがあり、早く届けられるものと、時間がかかるもの
手配に時間がかかるもの、物流に乗せるために時間がかかるものなど
現地のインフラの状態によって変わります。

Twitterで発信した情報の後にじつは届く予定のものなどもあり
情報を見て過剰に届いてしまうこともあります。

それは頭のよい人たちであっても変わりませんし
受け手の気持ちが本当に理解したものを送るというのは本質的には不可能であり

喜ぶ可能性の高いものを届けられるかという
確率とタイミングの問題でしかありません。

喜ばれたかという観点で考えると
千羽鶴を届ける人たち大差がないと言えます。

合理化がもたらす弊害

合理的なものを突き詰めるとお金のような融通の利く物になります。
被災者にお金を届けるとを考えると、何だか不可思議に感じますよね。

本当に合理的に考えてしまうと人の気持ちは分からないので
その人の気持ちを汲むのであれば必要なものを「お金」で調達してください
または「頼んでください」といった形になります。

プレゼントでお金を渡されるのと同じではないでしょうか。
多くの人がそれを残念に感じるのは、何にでも変換可能であるがゆえに
相手の感情が見えないや、気持ちがこもっていないと感じてしまう問題です。

それは災害でも国際政治でも同じなのです。

日本は国連に多額の金銭的な支援をしています。
ですが国際的にはその部分を評価されていません。

それは何故か。
理由はプレゼントにお金を出しているのと同じです。
お金は融通が利く反面、人情味を感じづらくありがたみを感じないからです。

そのような形が進むと、送られた側の感謝が減り
感謝が届かないことで送る側のモチベーション低下に繋がると感じています。
すると長期的には、互いが助け合うといった文化が廃れ支援をしあう流れが
失われてしまうのではないかと感じました。

頭のよい人たちの言葉は正しく聞こえますが
個を際立たせることになり長期的な社会損失を誘発しているようにも感じます。

できることの限界

僕たちは頭のよい人たちのと違い、できることが多くありません。
気持ちがあっても個々でできることには限界がある人たちも多くいます。

そんな人たちでも何かしたいというのは、悪いことはのでしょうか。
役に立つものを送るということを考えるのが苦手な人もいます。
情報収集が苦手な人もいます。

気持ちだけが先行してしまう人もいるでしょう。

彼らのように素晴らしい才能や知性を誰もが兼ね備えているわけではないのです。
それでもできることをしたいという思いがあるのは素晴らしいことだと思います。

彼らの言葉を全て正しいとしてしまうと、それができない多くの人たちの
モチベーション低下に繋がると感じます。

千羽鶴を折ることで気持ちを届けることが、実際には役に立たないことなのかもしれません。
ですが、現地で困っている人のことを思っている人がたくさんいるというのを届けるのは
物質的な面以外で役に立つ部分は存在します。

安易に否定するのは社会的なモチベーションダウンを生み
結果損をするのではと思います。

頭の良い人たちと共生する支援

これが答えです。
頭のよい人達は最良のアイデアや物を多く届けることをしてもらうのが良いでしょう。
物質的な支援は彼らに任せ、気持ち的な支援を出来る人たちがすればよいと思います。

千羽鶴がというだけでなく、気持ちを届ける方法は様々あると思います。
千羽鶴が本当に迷惑であり邪魔というのなら、手紙や動画メッセージなど方法はあると
頭のよい人たちがそっとフォローしてあげれば良いと思います。

それぞれの見えている視点でできることをバランス良くやっていくことが
結果、被災者側からすれば物質と気持ちの両面で救われる形になり
三方揃ったWin-Winの形になるのではないでしょうか。

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