テラスハウスの誹謗中傷の件で視聴者が知るべき事

映像の制作者一人として書くべきだと思いました。
この記事では視聴者のリテラシイーやモラルについて触れています。
ですので、不快に感じる方は読まない方が良いかもしれません。

そして公平な意見交換の参考になれば良いと思っています。

テレビの真実

僕は中学生の頃に、遠足で埼玉県の観光地に行った事があります。
観光地は江戸時代の雰囲気を思わせる町並みの場所でした。

瓦屋根の平屋が続き、入ってみると手製の手毬や工芸品、まんじゅうや煎餅など
露店が続くお土産街でした。
当時は平日にも関わらず街中人で溢れていて、土日のような盛況ぶりだったのを覚えています。

その街の中心地でテレビ番組の収録をしていました。
一つのテーマを深掘りその知識や技術を競い王座を決める番組です。
クイズに解答し、ライバルが進行に合わせて脱落していきます。
当時はテレビっ子で僕もその番組が好きでよく見ていました。

難問に苦悩しながらも正解を導き出す姿は
本当にすごい大人がいっぱいいるんだと関心していたものです。

収録現場は人だかりが出来ていて
僕は割り込むようにして様子を僕も見に行きました。

テレビで見ている通りクイズが出題され、限られた時間の中で出演者が回答するのですが
途中、番組の制作スタッフの一人がスケッチブックをチラチラを出演者に向けていたのです。

僕は子供でしたが違和感には気付きました。
出演者のスケッチブックをチラリと覗く視線。
僕は気になってスケッチブックの内容を確かめにいきました。

なんとスケッチブックには問題のヒントが
書かれていたのです。

リアルとフィクション

テレビのブラウン管越しに見ていたものが本当のリアルだと思っていたのですが
撮影現場での現実を知り僕の中ではフィクションになってしまいました。

このショックは当時の僕には大きいものでした。
一時期、番組を遠ざけていた覚えがあります。

整理して考えればショックの原因は、視聴者への裏切りです。

どんな部分に裏切りを感じたかと言うと
信じていた気持ちを裏切られたという失望感
今まで消費してきた時間への消失感でした。

だから裏切られた気持ちになって
嫌気がさしたんだと思います。

テラスハウスが起こした問題の本質

話しを戻しますが今回、テラスハウスの誹謗中傷の原因となっているのは
リアルとフィクションの境界線の問題が不確かだから起こったのではないでしょうか。

この事件には演出されていて本人の完全なキャラクターではなかった。
という意見が寄せられています。

僕自身もテラスハウス型の番組には演出が入ってると思っています。
なぜそもそも、そのような形にしなければならないのかを考えなければなりません。

結論ですが、「フィクション」は「リアル」に勝てないという本質があります。
作られたものはどんなに面白くても偽物です。偽物はどこかで割り切って見てしまいます。
するとキャラクターへの面白みや興味が減ります。

テラスハウス型の番組が「リアル」を全面に打ちだすのは
人間の「生々しさ」を視聴者が望んでいるからです。

「生々しさ」がテラスハウス型の基本軸です。
「生々しさ」をコンテンツを提供しなければならない。
「生々しさ」を担保するためにフィクションではなく
演出という方策になってしまうのです。

生々しさを無くすとドラマに勝てない

テラスハウス型の問題点が「生々しさ」を担保するために演出に走る構造だとするならば
生々しさを無くし、フォクションでやれば成立するのではないか。
そう思うかも知れません。

するとドラマには勝てないのです。
計算された起承転結の面白さがないからです。

ドラマは違います。
シナリオが組まれ、時間配分があり
視聴者がどこでどんな感情になるかを計算して展開が構成されています。
だから飽きずに見ていられるのです。

テラスハウス型の演出はドラマの要素を取り入れ
視聴者が飽きないように工夫しているとも言えます。

ドラマの内容を思い出してみてください。
各話トラブルが起こり、解決のために主人公が奔走したり
頭を抱え等身大の悩みを吐露します。

そして中盤悩んだ末、決断し行動を起こす。
終盤に事の顛末に決着がつき視聴者は安堵。

面白いシナリオは時間単位で視聴者が何を思い
どんな感情になり、どこで共感するかを逆算して展開を組んでいます。
これは漫画も小説も同様です。

物語には事件や出来事で登場人物が揺れ動かないと
進行していないのです。

テラスハウスを見続けてもらうためには
出演者がドラマのような展開を各話の中で起こして貰わなければなりません。

何も起きなければ、面白くないからです。
シェアハウスで同居するだけでドラマが起こるでしょうか。

渋谷のスクランブル交差点を映し出している定点カメラを見るのを想像してください。
本当のリアルは定点カメラのリアルと同じなはずです。
月額料金を払ってまで見ますか?

何か面白いモノが写り込むかもしれません。
面白いシーンや出来事に出逢えるかもしれません。

1週間の中の映像を編集しても期待した面白さが起こるなんてまずないでしょう。
月額料金を払ってまで見るのは中々ハードルが高いと言えます。

エンターテイメントは基本的に「主体性を持った受け身」だと思っています。
視聴者は自主裁量的に選択してエンターテイメントを提供してもらうスタンスです。
YouTuberの投稿動画を見る感覚に近いと思います。

ですのでテラスハウス面白く仕上げ、選んでもらうためには
演出の必要性が出てきてしまうのです。

キャッシュフローの問題

無料のコンテンツではありません。
誰かがお金を支払い制作されています。

そのお金は何の価値を得るために、支払われているのかを
考えなければなりません。

エンターテイメントの動画コンテンツでは視聴率は
キャッシュフローと直結しています。

資料率はYouTubeでいうところの再生回数です。
定額課金型のプラットフォームであれば、視聴率はプラットフォームの持つ吸引力や
魅力を可視化したようなものです。

視聴率を稼げない番組はプラットフォームへの貢献度が低くその価値を問われます。
Netflixでも視聴率の貢献度によって予算が変わってきます。

視聴率を稼げないコンテンツは打ち切りになります。
必然的に視聴率を魅了しなければならないのです。

※ 「ザ・ノンフィクション」などのドキュメンタリー番組の出資とは価値基準が一部違います。
ドキュメンタリー番組はジャーナリズムの観点も含めた社会貢献があると考えます。

僕の見たクイズ番組でもそうですが、
出題されたクイズに誰も問題に解答できず、問題が終了したらどうでしょうか。
王座に誰もつかず放送が終わってしまったらどうなるでしょうか。
興醒めだったと思います。

そのクイズ番組は「ミリオネア」のような出演者の「挑戦」ではありません。
そのクイズ番組で視聴者が見たかったのは「接戦」です。

王座を狙うライバルとの接戦に視聴者は一喜一憂したいのです。
ですのでライバルとの戦いに勝敗がつかなければ構成としては収まりがつかず
最後に視聴者が「面白かった」にならないのです。

テラスハウスでは「男女のコミュニケーション」ではなく「恋愛」を見にきていませんか。
リアルな男女のコミュニケーションであれば演出を入れなくても成立したかもしれません。

視聴者層の本音は普段見られない他人の恋愛ではありませんか。
制作陣も視聴者の見たいポイントは知っています。

なんとかして各話の中に「恋愛」の展開を生まねばならない。
でないと打ち切りになってしまいます。

だから演出が演出の介入が必要になってくるのです。
※ 番組制作陣は視聴者への価値提供がお客様への価値提供になっているからです。

ここまでのまとめ

現状テラスハウス型の番組の抱える問題について紹介していました。
ここで一旦整理したいと思います。

・リアルとフィクションの境界線が曖昧なのが問題
・キャシュフローの構造的問題

僕がここでしているのは業界側だからこそ分かる構造的な情報の提供です。
そして感じて欲しいのは、他の業界の人にこの情報を知った上で公平な批評に繋げて欲しいということ。

改善のために

結論、リアルとフィクションの線引きを表明すれば解決できるのではないか。
具体的には、どこでどんな演出が入っていたかを注脚入れるという方法です。

薬の用法用量の表記に近いレベルでもしておいた方が良かったと感じています。

「リアル」という言葉は悪魔の囁きです。
フィクションからすれば、これほど甘美で情熱的な言葉はありません。

テラスハウスがフィクションだとは思いません。
フィクションとリアルの定義の位置付けと捉え方だと思います。
どちらの要素も含まれていれば「リアル」の言葉を使うもの問題ないと思います。

番組の打ち出しスタンスを視聴者のミスディレクション狙いで「リアル」に振るのではなく
フィクションベースでの「リアル」という位置付けにスライドすれば
トラブルを減らせると感じています。

もちろん誹謗中傷の問題を解決する根本策ではありません。
しかし問題の起点を改善すれば発生率は下がり、制作側、出資側は巨大な損失をしなくても済む。
出演者も演技であると言えれば、トラブルは起こらない。

内包している問題のアプローチにはなるはずです。

PRの仕組みとして、炎上マーケティングを組んで計画されているのであれば
番組側で受ける構造にシフトしなければなりません。

テラスハウス型とモキュメンタリーの違い

現状のテラスハウス型ではフィクションのネタばれを含むか否かです。
モキュメンタリーはネタばれを含みます。

モキュメンタリーとはドキュメンタリーに似せたフィクションを指す造語です。
テイストはドキュメンタリータッチが多くリアル感のある演出がされています。

モキュメンタリーのメリットは意図的に展開を作れる点です。
なので視聴者を飽きさせない演出が可能になります。

モキュメンタリーにはどんでん返し型と、事前告知型の二つがあります。

どんでん返し型はドキュメンタリーと信じ込ませ、最後に告知があり嘘とバラすパターン。
嘘を告知することでカタルシスを作るパターン。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」などホラー映画ですが形はモキュメンタリーです。

事前告知型はエンターテイメントとして楽しむパターン。
「リアル」感を楽しむエンターテイメント型です。
どこまで本当なのかを推理する楽しみなどもあります。
「パラノーマル・アクティビティ」
「戦慄怪奇ファイル コワすぎ」

包括的に考えれば「カメラを止めるな!」
モキュメンタリー要素があると言えます。
※ 「嘘」「リアル」「嘘」という構造なので

テラスハウス型は最後まで告知はありません。
演出を告知する場がないものをテラスハウス型の
「リアリティーショー」になるのだと思います。

視聴者はどうすればいいのか

結論、リアルはないとして楽しむ。
どんな動画にも他者からの介入があります。
その割合の問題です。

1ヶ所でもカットを入れれば、他人の主観が入ります。
カットを入れなくても、説明文や動画の置き方だけでも視点が変わります。
究極的に言えば、自分の手の届く距離以外のものは全て他人の意志が介在してしまいます。
どんなものにも意図があり、目的があるからです。

なのでそれを多くの人の言う。
信じたいリアルだと言うのは間違いです。

盲目的受け取って欲しくないので極論で言います。
全ての動画はフィクションという前提で見てほしいです。

そうすれば、少しは前後背景を疑ってもらえると思うので。
そうすれば予想する楽しみや推測する楽しみも出てくるかもしれません。
その上で情報やコンテンツを楽しんでほしいのです。

そう考えると木村さんは
プロ意識が高かったのではないかと思えます。

悪役で視聴者に恨まれるというのは役者の中ではある意味、誉れです。
何故なら視聴者の感情を揺さぶるほど
視聴者に届く演技が出来ている証拠だからです。

悪がなければ正義は輝きません。
僕は性善説を信じているので
その前提で話すとすれば、人は悪を演じるのは難しく
本当に他人から恨まれるというのは簡単ではないのです。

何故なら人は途中で思い返すからです。
自分のやったことで相手の気持ちを慮ったり
今後の自分の進退に影響が出るのではないかと躊躇したり
圧も弱くなるし、フォローも反射的に出てしまうのです。

視聴者が怒りや不快を感じたとすれば
それは出演者のプロとして本物であったからではないか。
そう思えるのです。

誹謗中傷の問題について

現実的に出演者の発言や行動に心を動かされ
誹謗中傷コメントをした人が悪なのか問題です。

発現することが悪なのか、内容が悪なのか。
そもそもどの部分が悪なのか。

発信や発言についての価値基準を考えたいと思います。

Twitterの本質をどう捉えるか

Twitterはオープンな感情のこぼし処だと思っています。
世界に悟られてしまう愚痴をこぼす場所。

僕はTwitterの運営方針がカオスを楽しもう(他のSNSと比べて)、というスタンスだと捉えています。
どんな卑劣なコメントも汚いコメントも、ある程度許容されるべきだと考えています。
モラルやリテラシーが強く作用してしまうと思考が一方向になりやすく危険なのではと思います。
カオスはネガティブな要素もありますが、そこから新しい価値感や発見も生まれる可能性があると
考えると一概に悪いとも思えないのです。
※ 直接メッセージで辛辣な内容を送りつけるのは範囲外と思っています。

もう一つの判断基準はTwitterの削除対象かどうかで捉えればよいのではないでしょうか。
書くのは良いと思います。どんな言葉も、どんな発言も「つぶやき」ならば有りだと思います。

それが頭の中で済ませるのか、世界中の閲覧権限が与えられるのかの違いと考えれば
見る側の問題と言えなくもありません。
そこに対してモラルやリテラシーを入れてしまうと
つぶやきの持つ価値感が損なわれてしまうとも思っています。

感情的発散こそがつぶやきなのではなかったか。
と考えると、指摘の視点が違うのではと思いました。

SNSトラブルの起点

問題は「流れ」です。
SNSがもたらす津波のようなウェーブこそが問題であり、危険だと思います。
僕は集団的ウェーブが今後も最も危険度の高い社会課題になると思っています。

最も警戒すべきは意志を持たない波だです。
今回の事件も問題は一個人ではなく、集団の影響力だと思っています。

一つ一つの発言や行動は小さな一匹のイワシのようなものです。
一匹ではどんな発言も行動も心理的影響は少なかったでしょう。
その発言や行動が群れを成し、方向が作られるとリヴァイアサンの如く
恐ろしいウミヘビとなって襲いかかってきます。

最も恐ろしいのはカリスマやリーダーの不在です。
集団の方向に対して何らかの正義や意志があるわけではなく「狂」ようなノリで行われている部分です。
今後もノリで物事や社会が動かされてしまうのではないか。

「アラブの春」のようなビックウェーブが意志を持たぬ「狂」で行われ
結果ネガティブに世界が判断したときにどうなるのか。

イギリスのEU離脱の件などを思い返しても、常に考えておかねばならないと思いました。
そんな波の渦中で一人一人がどう向き合っていけばいいのか。

そのような危機に備えるためにも一つ一つのアプトプットにも
責任を持つべきだと思いました。

悪の所在

この中で何が悪なのかと個人的に考えた時に
発言に責任を持たないのがもっとも「悪」だと捉えています。

どんな辛辣な言葉も吐き出したくなる瞬間はあると思います。
感情的に落ち込んでいたり、心身が弱りのタイミングが悪い時もあります。
むしゃくしゃしていて八つ当たりの理由としてネタにしてしまうこともあるでしょう。

人間なのでしょうがないですし
人生の中でそんな時期の方が多いと思います。

完璧になれる人間はいませんし
成熟した完璧な人間だって
その人生の大半は未熟な時間だったはずです。

だから、ついぽろっと出てしまうのは仕方ないと思います。
怒りや妬み、悲しみを辛辣な言葉に代えて発散するのが悪いとは思いません。
発言することも悪いことじゃない。

ですが、自分が行った事実から逃げるのは悪だと思います。
その結果、現実がどうなったかは受け止めるべきです。
そして認めましょう。
どんな経緯であれ、自分の一言で影響を与えていることは事実です。
そして今日の結果を作っているのも事実です。

その結果と事実から逃げてしまっては、反省も出来ません。
反省できれば次を回避できます。

周囲に流されず身を引くことが出来るかも知れません。
冷静になり、周囲を止めに回ることが出来るかもしれません。
傷付いた人を救う気持ちを理解し、フォローに回れるかもしれません。
身近にいる大切な人のシグナルにいち早く気付いて、未来を変えられるかもしれません。

だから自分自身の未来にまで背を向けて逃げるのは、悪だと思います。

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